Ante festum patriam visitamus.

夕方近くになり、何となく故郷の大山を訪れた。

江戸時代から主要な交通インフラとして整備された(旧)川越街道として発展してきた大山の商店街、1978年にアーケードを作る等して商店街の分断に半世紀位抗ってきたが、
とうとう再開発が進んできたのを感じた。
https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bousai/machidukuri/chiiki/1006312/1006302.html
このBlogでも再開発のことが触れられている。
http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_81e8.html

お茶するところを探していて、居抜き物件感漂う
https://kameyakitchen.jp/
に入るとここは昔は履き物屋さんだった。私は大山在住時存在を知らなかったのだけれど、天井を見ると墨書きで"十二尺"等と書かれている古い材木がいくつも見えた。少なくとも戦前かもしかすると大正時代位に建てられたのだろうなと。私はテンション上がり、お店の人にその木材の撮影を許可してもらった。

その後、私がその際で生まれた千川上水の100年前の記録を絵地図として残してくれた大山の名士の花屋さん
https://haro.or.jp/shop/bireien.html
へ行き、名士のお孫さん(私の小学3-4年のときの同級生)と会った。同級生は3姉妹の真ん中で今ではワイフさんとインスタでつながっていて今回は私よりもワイフさんと話をしていた。

夕食は大山駅前のタイ料理屋
https://ruanmai-thairestaurant.jp/product-category/recommend/
私は片言のタイ語で話をしていたが、文字は書けない。Chang(Singha以外のタイビールを飲むのは初めてだった)を飲んだが、Singhaより軽い味だった。ワイフさんはタイに行くことを望んでいた。暑くなければね。

Personam non gratam definio.

1995年12月22日、P-MODELのLiveに行ったとき、
<externalvideo src=“YT:6mgDYoqhYCo:D”>
インターネット新時代なんだろうなとぼんやり考えていたが、実際に自分がインターネットをやり出したのはそれから2年以上経ってからだった。また、自宅回線は実質的には2000年になってからだった。
その頃には 出会い系 と言う言葉が使われ始めていて、その時は「今迄出会ったことのない人と何か新しいことができる可能性のことか」と勝手に思い込んでいた。

2005年4月9日にmixiを始め、それ迄あちこちのBBSで知り合った人の多くが、当時かなり期待されていたそのSNSを介してつながったのだった。その他、全く知らない人ともつながる期待もされたが、口の利き方を知らないならず者が書き込むことが何度かあり、基本的に私の日記は友人の友人限定になった。基本日記やつぶやきを限定にしない人は、諦めていない忍耐力のある人なんだろうな。

私がまとめやくとなっているプレゼン会、いつルリ師匠が企画して15年位続いた王将会が母体になっているのだけれど、王将会のメンバーから面白そうな話をしてくれる人を募ってみた。残念ながら中には自分の話しかせず、それでいて自分の話を形にしたり、継続させたりする気のない人間がいてうんざりした。議論をする意思のない人間をプレゼン会に誘う私もどうかと思うけれど、そのときは面白そうな話をしてくれそうだからだったんだよな。「必殺仕置屋稼業」の第1話で、中村主水が仕置屋前から手下にしていた捨三の親友である破戒僧 印玄を、直感で仕置屋メンバーとしてスカウトした、あの感覚だったんだけれどね。殺ヲタにしか通じない例えだけれど。

プレゼン会は、結局は面白そうな話をしてくれそうな人、それでいて簡単に言えばシナジーしてくれる人じゃないと続かないよね。時間かけていくしかないよ。

私が2012年4月7日から関わっている某勉強会、これもいつルリ師匠のお誘いで加わったんだけれど、師匠と出会った1997年11月15日の段階では、多分私は面白い奴かもしれないが腐れジャンキーだから誘えないな、と思われたかもしれないよ。

発酵食品とMellotron

私がMellotronという楽器の存在を知ったのは、1981年10月頃、「ミュージックマガジン」1981年11月号で、当時再結成したKing Crimsonの記事に載っていたファミリートゥリーにRobert Frippの担当に(g, mellotron)と記してあったときであった。同時期私は「宮殿」を聴いていて、"Epitaph"等に使われている妙なキーボードの音に若干恐怖心を抱いていた小学6年生だった。

その後、主にプログレロックと呼ばれるジャンルの曲に多用されていたことを程なくして知った。そのうちにその楽器の醸し出す音色をあれこれ嗜むようになっていたが、ポリフォニックシンセサイザーが一般化した1980年中盤ではMellotronは無用の長物扱いされていた。ところがYBO2がmellotronを現行で使うバンドと知り(その他、ヒカシューでも井上誠さんが弾いていたけれど)まだ楽器として生き続けていると認識していた。

1990年も中頃になるといつの間にかMellotronは復権し、本物かサンプリング音源かは定かではないにしても、Mellotronの音色が再び、というか数10年前以上に認知が広がったかと思う。多分21世紀になってMellotronを知った人の多くは「宮殿」やMoody Bluesの「サテンの夜」等のストリングスの音色ではなく、Beatlesの"Strawberry Fields Forever"の、「フーッフーッフーッフーッ」のフルートの音色の印象が強いのだろうな。

 

当初、Mellotron(とその先祖であるChamberlin)は、アナログサンプラーとしてではなく、家カラシステムに近い電気楽器として開発された。特に、Chamberlinの開発者であるHarry Chamberlinはロックミュージックやロックミュージシャンが嫌いだったというから、最初からマーケティング対象になかったのだろうな。

 

 

先の「ミュージックマガジン」に載っていた鈴木慶一×山川健一の対談で"Epitaph"のMellotronの音色を「チャンバラ映画のエンディングで流れるぼろいストリングス」と表現していてそこで子供心ながらローファイ音源であることこそがMellotronの風味であると理解していた。

私は、Mellotronはサンプリング音源でいうと発酵食品に近い立ち位置だと理解している。ローファイな記録媒体を通じて、生音とは異なる音色に変質、一種の熟成したものとなっていると解している。

Harry Chamberlinが1940年代の技術で無理やり、そして期せずしてサンプリングマシンとして認知される電気楽器を作ったことが、この"熟成プロセス"を介在させたのだ。Chamberlinの製作があと30年位後になったらローファイな音源の楽器にはならなかっただろうから、その時代での技術によるかなり無理やりなものづくりは、歴史的に不可逆な特異な何かを生み出すことにつながるのだろうな。

 

28.-29. July 2018* Soft Machine ~Farewell JAPAN Tour~ @ Billboard Live Tokyo

前回の2015年3月の来日もここBillboard Live Tokyo(六本木)だった。

この公演でJohn MarshallさんとRoy Babbingtonさんが引退するということで、
寄る歳には勝てず、残念だけれどしょうがないと捉えていた。Marshallさんは2007年7月末のSoft Machine Legacyのときの来日時もだいぶ体力的に辛そうに見えたし、前回の来日は体調が悪く代役のGary Husbandさんが代役ドラマーとなった。この人、今回はゲストキーボード奏者として加わった。

私は28日と29日の2回公演のいずれも押えた。4回のうち最後の枠はワイフさんとディナー付きのプランにした。高いところからステージを見下ろす感じだった。

のっけから新作の"Hidden Details"のタイトル曲で始めた。非常に力強い曲調だ。現役感漲るバンドだ。Soft Machine Legacy時代から新作迄の曲と、1970年からの古い曲はだいたい半々。古い曲は、大きくアレンジを行い新しい命を吹き込まれているように思えた。
今回は不朽の名曲(と私が思っているだけか)"Out-Bloody-Rageous"の、前半だけとはいえ演奏していた。Theo TravisさんはFender Rhodesをタブレッド(?遠くで良く見えない)を介して、"Out-Bloody-Rageous"のイントロのミニマルエレピの部分を自分なりに再現していた。

MC担当のJohn Etheridgeさんは毎回のステージで各メンバーがいつからバンドにいるのか(Royさんが1971年から、というのは"4"と”5”のゲスト参加もカウントしているのか?)も説明していた。また、演奏する曲の作曲者への敬意を欠かさなかった。ギターも変幻自在で素晴らしい。

Royさんのベースは、昔だとHopperさんと比較して軽い(でもより技巧的な)ラインと理解されてきただろうけれど、今ではかなり重厚な音を鳴らすことも多かった。78歳にして音は若々しい。

Theo Travisさんの管楽器はSoft Machineの音の要を担っていた。Fender Rhodesはちょっと控えめに思えた。

John Marshallさんは、若い頃と比べて打数は少ないけれどツボを押さえた打法であり、まだまだやれるのではと思いながらもちょっと体に衰えが感じられた。

ゲストのGary Husbandさんは5曲目位から参加。ピアノ演奏はそこそこ、Nord Lead 2X
は、少々不発なところがあった。

3回目(29日の早い回)は、Royさんが至近距離に見える場所だったが、MarshallさんはFender Rhodesの筐体に隠れてしまい、白髪頭が少し見える程度だった。ドラムソロのとき、ピアノの筐体に反射してだいぶ歪んだ像として観ていた。このとき私はだいぶ姿勢を落とし、肘がステージにぶつかる位だったので私のことを変な姿勢だと思った人もいるだろうなw

4回目のアンコールは"Hazard Profile"だった。John Etheridgeさんが一番好きな曲だと話していた。私は1990年3月下旬の、学部に入る直前のことを想い出す。その頃私は"Hazard Profile"の入っている”Bundles”を当時LPで買ったんだよね。ワイフさんはこの曲は前回のLiveのときに気に入って覚えていた。

サイン会のとき、手紙を皆さんに渡すことができたのだけれど、MarshallさんとRoyさんは「これにサインして君に渡すの?」「中に小切手が入っているのかな?」と、手紙だと理解してもらえなかったw 流れ作業でサインしていたからだろうな。

14. July 2018*COLOSSEUM & JCM集会 @ 墨田リバーサイドホール

2015年2月をもって、空白期間を挟んで45年の長きに亘り活動をしてきたColosseum
/http://www.temple-music.com/gallery/colosseum/
が活動を停止した。その後今度はメンバー3名(Jon Hiseman, Clem Clempson, Mark Clarke)が結成したのがJCM
http://jcmband.com/
であった。JCMは縁のあった、そして亡くなっていったミュージシャンの曲を演奏することを目的としていた。

今年の4月にLiveで回ったその途中で、Joh Hisemanさんが脳腫瘍に倒れ、
http://www.temple-music.com/jon-hiseman-dies-aged-73/
http://jonhiseman.com/
6月12日に世を去ったのだった。

Hisemanさんの追悼文は私もこんな風に記している:
http://d.hatena.ne.jp/fatagaga/20180612/1528813549

私が参加したこの集会は、JCMが来日してほしいという機運を高めるために企画をしてきたのであったのだけれど、結果的にHisemanさんの追悼にもなってしまった。

集会の当日は茹だるような暑さであった。そこで菊さんやメメさんやTaaさんやGeoffさんや つるみんさん他、ここ数年でUriah HeepやJohn WettonやCamelの集会で顔馴染みになった皆さんと今年3度目位の顔合わせになった。

様々な情報の交換があった。実際に4月のLiveのためにLondon入りされたメメさんの情報も大変貴重であったと思うと同時に、その直後にHisemanさんが倒れるという事態に陥ったのはご本人としてかなりお辛いのではないかと憂えた。

どういう訳か、私はVan der Graaf GeneratorのTシャツ(2012年8月の来日時に売っていたやつ)を着ていた。どうしてValentine Suiteのやつを着なかったのだろう。

集会の2次会の飲み会では、Colosseumのこと以外でも随分といろんな話をしたよ。ワイフさんは私の同伴という感じだったんだけれど、ワイフさんはJohnny Marrの方ともお話ができて本当に良かった。

In memory of Jon Hiseman

私が初めてColosseumの曲を聴いたのは、1987年2月27日深夜、
"クロスオーバーイレブン"で流れた”Elegy”だった。軽快に走るドラム、ハスキーな歌声、鋭くリフを入れるサックス、少し霞んだ音像のオルガン、そして優雅なストリングス、私はColosseumがその時点で少々古臭いと思いながらも、その後30年以上も私の脳内から霧散することのない佳曲となった。

アルバムを丸ごと聴いたのは、”Elegy”を収めた”Valentine Suite”ではなあくて、その次のアルバムとなった"Daughter of Time"だった。1991年6月23日頃だと思う。気象庁のサイトで確認したけれどこの作品を初めて聴いた直後、東京は熱帯夜になった。この作品はとかく重厚な音だった。その厚みと気候の重さが重なったことを記憶している。Hisemanさんのドラムは、バスドラとロータムが重いのが特長だと理解するのに3年位かかったかな。それと、月並みながら当時の私は「大人のロック」だと感じていた。当時の私は既に、そのときのClemさんやMarkさんと同じ歳位だったんだけれどね。
そんな私が受けた感銘を、残念ながら大学で共有する人はいなかった。

”Valentine Suite”と1stの"Those Who are about to Die Salute You"は2枚1つになったのを、1992年12月の年末近い頃だった。こちらは、より生っぽい音でこちらも愛聴盤になったよ。"Kettle"は第1世代のハードロックと解して聴いていた。
それと、かなり後になってからだけれど、"Those Who are about to Die Salute You"に入っていた”Backwater Blues”はブルースを知るきっかけになったカヴァーだった。

最後に残った”Colosseum Live”は1993年2月末頃に聴いたのかな。〆になる”Lost Angeles”は最初聴いたとき原因不明の苦しい気分になったけれど、Hisemanさんのドラムが途方もないテンションで続くんだよ。私はColosseumがこの曲に全エネルギーを放出して解散したんだなって勝手に思うようになり、それ以来この曲聴くと泣くようになったよ。

2001年6月24日、国立競技場駅を降りたつとき聴いた”Downhill & Shadows”を聴いてふと涙が込み上げてきた。この曲を初めて聴いてちょうど10年後のことだった。

私が後追いで聴くようになった頃はColosseumを生で聴くことなんてないだろうなと思っていたんだけれど、世の中はわからないもので、それから間もなくしてColosseumは再結成したのだった。そして10年以上してColosseumが来日するのだった。私はHisemanさんに手紙を書いて(印刷だけれど)Club Cittaへ持っていったんだよ。

19日だけじゃなくて18日も行きたかったな。
"Those about to Die"では私だけが踊っていたかな。
”Lost Angeles”だけじゃなくて何曲かで泣いていたよ。
この頃、Club CittaのLiveのにぎにぎ会はデフォだった。全メンバーに話と握手ができた。Hisemanさんには、私がフルネーム(John Philip Hiseman)で書いて驚かれたけれどウィキペに載っているだけだけれどね。

次の年(2008年2月)にBarbara Thompson's Paraphernaliaで来日したとき、
Hisemanさんは私のことを「君は去年手紙をくれたよね」と覚えてくれていた。
会場を去るとき、少し離れてから手を振ったら手を振り返してくれた。

Colosseumの縁でいろんな方々と知り合うことができた。
私が結婚旅行でLondonに行っていたとき、Colosseumは最後のTourだったのだけれど、スケジュールの都合でLiveへ行くことはできなかった。

解散後、Colosseumの半分のメンバーでJCMを結成し、日本に来てくれると嬉しいなと期待していたのだけれど、それも叶わなくなった。このバンドで奏でることで追悼していた人達の方に、突然入ってしまった。

Hisemanさんは亡くなってしまったけれど、私はColosseumを中心に遺した遺産の数々を精神エネルギーにして生きていく。

今迄本当にありがとうございました。

Plaza fontis Osakae

1996年4月25日、私は初めて大阪を訪れた。会社の初めての宿泊の出張で。
それ迄大阪は未踏の地だった。ホテルはどこだったか忘れた。
阪急東通商店街
https://osaka-info.jp/page/hankyu-higashidori-shopping-street
を彷徨っていたのを覚えている。

東京へ戻る前、泉の広場に行ったのを何となく覚えている。
来年で撤去されてしまうそうだが。
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1804/26/news142.html

それから10年以上になって、YouTubeを嗜むようになって、ハギヤ整形のCM

を知ったんだけれどね。今は院長さんの3代目が去って店を閉じたと聞く。
http://katoyuu.hatenablog.jp/entry/hagiyaseikei

因みに1996年4月26日に帰京し、私はそのままGWに突入した。
初給料でCDを10枚位買った。その中にはUriah Heepの"Return to Fantasy"が入っていた。